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中畑康樹氏(元海将の)講演会    2026年4月20日開催

 

日本の防衛問題を考えるシリーズ第3弾「海から見た日本の防衛」を2026年4月20日に開催しました。参加された皆さまありがとうございました。

講師の中畑氏には詳細な海の交易物流データに基づき日本が抱える課題を平易に解説していただきました。

多くの質問もいただき中畑氏から丁寧な回答がありました。有益な情報をお届けできたことを大変うれしく思います。

次回の講演会開催の際にもご参加よろしくお願いします

NPO法人eグッドハート理事長  太田一彦

杉山良行氏(元航空幕僚長)講演会 2025年3月10日開催

日本の防衛問題を考えるシリーズ第2弾を開催しました。

参加者の皆さまありがとうございました。多くの質問をいただき講師の杉山氏から丁寧な回答がありました。有益な情報をお届けできたことを大変うれしく思います。

次回の講演会開催の際にはまたご参加よろしくお願いします。

NPO法人eグッドハート理事長  太田一彦

プレッシャー

誰でもプレッシャーを感じる時がありますが、皆さんはプレッシャーを感じる状況が好きでしょうか?嫌いでしょうか?大半の方は嫌いと答えるのではないかと思います。私も若いころはプレッシャーをなるべく感じたくなったし、避けたいという気持ちが強かったような気がします。

プレッシャーの定義はいろいろありますが、大事な物事に取り組む時や難しい状況に直面した時に、責任の重さを感じて重圧がかる状態を指すと私は考えます。受験や就職試験などは確かにプレッシャーかかりますよね。本当に重圧がかかって押しつぶされそうになります。

でもプレッシャーが適度に心地よい時もあります。私は中学・高校生の時にバスケットボール部に所属していました。チームが強かった時はプレッシャーを凄く感じましたが、一方で自分への期待が高まっているという雰囲気を感じて、それまでにはない実力を発揮する場面がありました。しかし、チームが弱かった時はプレッシャーを感じない代わりに、自分の力を存分に発揮することもできませんでした。

仕事も同じでした。若いころは大きな責任を負うようなこともなかったので、無理をせずに、そこそこの仕事ぶりだったような気がします。時が経つにつれて責任ある仕事を任されると、何とも言えぬ心地よさを覚え、プレッシャーをむしろ好むようななりました。

周りからも、私がプレッシャーを感じている時は仕事に一生懸命取り組んでいると見えたようです。ある人からはあなたはプレッシャーを感じていない時に、手を抜いているように見えるとも言われました。

確かに私は年を重ねるごとにプレッシャーがないと、刺激を感じられず情熱も湧かないようになってきました。プレッシャーは私の活力源と言ってもいいでしょう。

もちろんプレッシャーが人を追い込んでしまう時もあります。過度のプレッシャーを長期間受けていると心身に大きな影響を与えるでしょう。プレッシャーが大嫌いだという方は、時には自分の力を想像以上に引き出すこともあると思って付き合うと、少しは気分が楽になるのではないでしょうか?自分の許容範囲をしっかり把握して、時々プレッシャーに向き合ってみてください。

心配性

世の中には心配性の人が結構います。仕事のこと、家族のこと、お金のこと、コロナ禍のこと。身の周りで起きているすべてのことに心配しているのではないかと思える人もいます。

心配性の人たちをよく観察するとあることに気づきました。この人たちの多くは世の中で起きているあらゆることに心配しているのではなくて、自分に関係することだけを心配しているのです。

心配している対象が広いので一見すると世の中や社会全体のことを心配しているように見えますが、実は自分の身に及ぶ危険性を察知して心配しているのです。

コロナ禍が広がっている中で、テレビで年配のコメンテーターが感染者が増えている若者の行動を非難していました。コロナ拡大の防止策を主張しているように見えますが、言葉の端端に自分だけは感染したくないというエゴが感じられて嫌な思いをしました。

親が子供の顔を見れば必ず「勉強しなさい」と言う場面は、どの家庭でも見受けられるのではないでしょうか。この時も親は本当に子どものことを思って言っているのでしょうか?

どこの親でも子供は不幸になってほしくない、できるだけ幸せになってほしいと願うのは当然のことです。その願いが叶うように敢えて子供に嫌なことでも言っているとおっしゃる方も多いと思います。もちろん、そうした願いを否定するつもりは全くありません。

問題は子供の受け取り方です。親は損得なしに自分のことを心配して勉強しなさいと言っているんだろうなぁと感じれば大丈夫です。しかしながら、子供が良い学校に行かないと世間体が悪い、定職につかないといつまでも面倒を見なくてはいけないなどと親のエゴが少しでも見えてしまうと子供は受け入れません。

会社でも実は自分のことしか考えていない心配性の上司がいるのではないでしょうか。部下や部全体のことを心配していると思っていたら、実は自分の出世や地位安泰だけを考えている部長だったなどという話はよく聞きます。

心配性の人たちがすべてとは言いませんが、大半の人は正論を言っているようで実は自分のことを一番心配しているとてもやっかいな人たちなのです。

意固地

意固地の人ってよく見かけますよね。見かけるだけならまだしも家族や友人、職場の同じ部署でそんな人がいたら厄介です。

意固地の特徴は何と言っても他人の意見に耳を貸さない、自分の考えをあくまでも変えないということです。ただし、話をよく聞いていると、何か根拠があるとか客観性があるとか、どうもそういうことではないことに気づきます。

その人のこれまでの経験(といっても一般的には狭い経験)や自分が少しばかり成功した体験などから導かれる¨信念゛がその元になっているのでしょう。

そして多くの場合、意固地になっている人は被害者意識を持っており、外からの攻撃に防御しようという態度を示します。

昔働いていた職場ではよくこんな社員の声を聞きました。彼あるいは彼女いわく、自分は周りから嫌われている、自分の言うことを誰も聞いてくれない、自分を理解してくれる人が誰もいないーーなどです。

でも周りの人に話を聞くとだいぶ様子が違う場合が多いようです。周りの人は意固地になっている人に問題が生じていないか声をかけたり、みんなが集まる場に誘ったりして結構気づかっています。

残念ながら意固地になっている人はそんな他人の気配りが感じれないほど余裕がなくなっています。とにかく殻に籠って自分を守りたい、決して傷つきたくないという気持ちが優先されてしまいます。

殻の中から見た風景はどんなものでしょうか?視界が狭く、音も良く聞こえない、臭いもしない、体感覚がないといった感じでしょうか?

意固地になっている人は人間が本来持っている五感というものが上手く働いていないように思えます。

こんな人こそ心理カウンセリングを受けてほしいものですが、自分こそが正しいと考えているので、カウンセラーに出会う機会は極端に少ないでしょう。自らの気づきに期待するしかないかもしれません。

ゴマスリ

ゴマをすったり、すられたりした経験は誰にでもあるのではないでしょうか。職場ではよく見かける風景ですよね。そこには物理的あるいは精神的な上下関係が必ずあります。

ゴマをする側から観ていきましょう。職場を例にとると分かりやすいでしょう。ほとんどのケースは部下が上司に対してゴマをすります。相手が権力を持ち、自分の生殺与奪権を持っているとしたら、多少人づきあいが苦手な人でもゴマをするでしょう。

理由は簡単です。自分の得になるからです。自分が嫌われないで済む、好意を持ってもらえれば処遇される可能性もあるからです。今は上司が部下にゴマをする場合もあります。仕事はできるがちょっと厄介な部下がいる場合、上司は自分の管理能力が疑われないように部下にゴマをすって事を荒立てないようにするなんてこともおきます。

いずれにしても自分の保身が一番であることには変わりありません。ゴマをする相手への尊敬や信頼などがあるかどうかはあまり関係ありません。そしてそれが常態化すると自分の心と行動の矛盾に気づき、心身の歪みにつながる場合もあります。

ゴマをすられる側を観てみましょう。部下からゴマをすられる上司はそれが本心ではないと知りつつも悪い気分はしません。自分の言うことを何でも受け入れてくれて、しかも自分の権力を皆に見せつけることができるのですから。

長い年月、毎日そんな生活を送っているとそれが普通だと思ってしまうところが人間の困ったところです。ゴマをすられていることさえ忘れてしまい、自分は尊敬されている信頼されていると錯覚してしまうのです。

すべての人間関係が上下関係でしか見れなくなってしまいます。横の関係とか一人の人間として社会に向き合うなどという発想は生まれなくなります。

特に組織のトップに立った人間の引き際は難しいものがあります。長年ゴマスリに慣れきってしまった人にとっては地位を失うことが本当に怖ろしいと感じるでしょう。

何故なら誰も心から自分を尊敬したり、好意を持っていてくれた訳ではないからです。そのことを一番知っているのは本人ではないでしょうか。

ゴマをすったり、すられたり。人間関係の潤滑油として機能しているくらいならさほど問題ないかもしれません。でも、いずれの場合でも慣れきってしまったら失う方が多いかもしれません。

短期的には良くても長期的には割が合わないなんて事にならないように注意したいものです。

贔屓

贔屓の引き倒しとはよく言ったものです。贔屓目で物事を見ると、つい歪んでしまうということがあります。だれでも経験したことがあるのではないでしょうか。

贔屓の背景にはその対象への愛情や好感があります。それも一方的な感情や気持ちがあるような気がします。

プロ野球を例にとってみましょう。熱狂的なファンが多い阪神のケースが分かりやすいと思います。

毎年、開幕前に阪神ファンは盛り上がります。今年こそ補強も上手くいき、上位はもちろん優勝を狙えると期待は高まります。ほかの球団でも大なり小なりファンの気持ちはほぼ同じです。

でも阪神は人気球団なのでファンの期待は生半可なものではありません。特に補強した外国人選手に対する期待は熱いものがあります。

キャンプ中のフリーバッティングで柵越えのホームラン性の当たりを何発打ったかということで大盛り上がりです。よく言われる「バースの再来」という言葉が飛び交います。

ファンの気持ちをさらに高ぶらせるようにスポーツ紙が大きな見出しで「バースの再来」を訴えてきます。過去に外国人選手の大活躍があったという大きな成功体験があるので、誰でも夢よもう一度という気持ちになるのはやむを得ないかもしれません。

外から見ると、まだ開幕もしていない外国人選手にこんな期待をかけなくてもと思ってしまいます。当の選手に余計なプレッシャーをかけてしまうし、持ち上げるなら公式戦で活躍してからでも遅くないのにと思ってしまいます。外国人選手がちょっと気の毒なような気がします。

やはり贔屓というのは一方的な要素が強い感情に思えます。

贔屓は家庭でも学校でも職場でも見受けられる光景です。親から子供、先生から生徒、上司から部下へと。一方的にでも愛情や好意を持たれた子供や生徒や部下はそれなりに居心地が良い気持ちで生活を送ることができます。

他人から愛情や好意を持たれることは悪いことではありませんが、自分を見失う可能性もあります。

行動の基準が常に「他者からの承認」になってしまう危険性があるからです。人間は他者からの承認を求めると際限がなくなってしまいます。これで大丈夫という満足感が得らないからです。

一方で「自分に対する承認」ができる人は満足感が高い人生を送ることができます。自己承認は贔屓からは決して得られないということです。贔屓されて成功し幸せを感じている人もその落とし穴に気を付けた方が良いと思います。

メールと飛脚

メールを送ってもすぐに返信しない人がいる。いくら忙しいといっても1週間経っても返信しないという心情が理解できません。江戸時代の飛脚でも江戸から大阪まで最短3日で手紙が届いたそうです。1週間もあれば当時でも返信が届いたのです。

メールが送られてきても気づかないというケースもあります。時には携帯をいじっている最中に誤ってメールを消してしまうこともありえます。しかし返事をすぐに寄こさない常習者は私の周りに何人かいます。

私は最近、この常習者の人たち向けにメール受信後に開封確認できるように設定して送っています。その結果。半数が開封、半数が未開封のままでいることが分かりました。未開封の人は宛先だけ見てそのまま消しているのかもしれません。パソコンのメールは見ないという人もいます。

それはそれでこちらが相手にとってさほど重要な存在じゃないということが分かり、今後のお付き合いの程をどうする考えるための良い材料になります。

それよりも、私が理解に苦しみ不気味に思えるのは開封しても何の反応を示さない人たちです。

原因は何なんでしょうか? 忙しいから。すぐに決断できず返事を先送りしているから。返事を書くと束縛される感じがするから。

それぞれいろいろな事情や背景を持っているのは確かでしょう。でも長年付き合ってきた人からメールが送られてきたら、とりあえず要件にすぐに応えられなくても、内容を確認しましたというぐらいの返事は出せると思います。

それでも返信しないというその人の意思や感情の奥底に何があるのか知りたいと思っています。自分の内面に入り込んでほしくない。何か被害妄想があって自己防衛に走ってしまう。他人とはそもそもあまりコミュニュケーションを取りたくない。普段は無理してみんなに合わせているふりをしているだけ。などなどいろんな要因があるのだと思います。

実はこの人たちの本心にたどり着くためには、正式なカウンセリングが是非必要です。ある程度の理由は想像がつくのですが、実際にカウンセリングしてみるとそれぞれの個別事情が浮かびあがって驚かされるかもしれません。

すぐにメールを返信しない人には一般の人が理解できない闇が隠されているように思えてなりません。

思うがまま

誰しも自分の思うがままに物事が進めば、こんなに楽しいことはないし、これ以上の満足はないと感じるでしょう。

でも現実の世界では時々そういうことがあったとしても、永遠に続くことはありません。皆さんは現実の厳しさを重々知っているはずなのに、自分の思い通りにならないとイライラしたり、不平不満を言い続けたりしてしまいます。

何故そんな矛盾した行動をとってしまうのでしょうか?

その原因は深層心理に潜んでいます。職場や学校や家庭で身近に接している人が自分に合わせてくれない。自分が生きている時代が合っていない。周りの社会環境が自分にとって不都合にできている。そんな風に考えているのではないでしょうか。

思うがままということは自分の周りが自分の都合の良い方向に変わることで、自分自身が変わることではないという心理が根底に潜んでいます。

自分自身が変わるということはとてもつらい作業なので、周りが変わってくれれば本当に楽でしょうね。でもそれって自分勝手でわがままな態度に見えませんか。

そして思うがままにと考えている人の多くが他人から承認されたいという欲求が強いように感じられます。学校で良い成績を収める。仕事で昇進する。それ自体は悪いことではありませんが、何のためにということを忘れてしまうと、他者からの承認自体が目的になってしまいます。

思うがままにという考えが自分の内面と向き合って導き出されたものならば良いのですが、他人から認められることが前提となっている場合は危ういと思います。自分自身は変わるつもりがないが、自分に対する周りの評価さえ変われば思うがままなんでしょうか。

アドラー心理学は他者から承認を求めることを否定します。本当の幸せにつながらないからです。

他者から承認を得るのではなく、自分の心がマインドフルネスの状態になったと時に本当に思うがままに生きていけるのではないでしょうか。

こだわり

「こだわり」は良いか悪いかの問題ではありません。受け入れられるか受け入れられないかの問題です。

こだわりを持っている人は何となく真面目に物事に取り組んでいる印象があります。逆にこだわりがない人は大雑把でいい加減だというイメージを持たれています。

確かにこだわりを持つことによって大きな成功をつかむことがあります。自分の感性と技術を信じ、こだわりを持って取り組んできたシリコンバレーのIT創業者はその良い例でしょう。

一方、インターネットの黎明期にハード中心のモノづくりにこだわっていた日本の技術者も多くいました。皆さん真面目で熱心な技術者だったと思います。でもそのこだわりは正しかったのでしょうか?残念ながら結果をみると、ハードよりソフトにこだわりを持ったシリコンバレーの方に軍配が上がりました。

こだわりはその時代に合ったもの、その時代に受け入れられたものが評価されると言っても良いでしょう。

コロナ禍でいま飲食店の在り方が問われています。長期間の休業を経て店を再開にこぎつけたオーナーや店長さんらは失った売り上げを何とか取り戻そうとして必死です。私たちもできるだけの応援をしたいところです。

そんな中で「今まで以上に味にこだわってお客さんを満足させたい」という声を聴きます。でも私はちょっと違和感を感じてしまいます。

いまお客さんが店に一番こだわってほしいのはコロナ対策ではないでしょうか?味にこだわりたいと真っ先に言われると押しつけのように感じられます。いつの時代でも安全と安心が無ければ外で食事などしないのは当然です。

お店には「安心しておいでください。そして美味しい食事を堪能してください」と言ってもらいたいものです。

こだわりもちょっとずれた方向に向かうと逆効果になってしまいます。ずれたこだわりは単なる「自信過剰」「思い上がり」「自己満足」になってしまうからです。そして周りの人には大きな迷惑となってしまうのです。

私はこだわりを持っているという人は今一度、自分に問いかけてみてください。本当にそのこだわりは望まれれているのだろうかと……。